四高日誌

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校長室だより【10月】 日本人の英語学習の歩み

「日本人の英語学習の歩み」
                平成30年10月31日 校長 外山 信司

 先月に引き続き、日本人の英語学習について振り返ってみたいと思います。なお、私見に基づいた、きわめて大雑把な流れであることを御了解ください。
 英語に出会った幕末期の日本人は、福沢諭吉や津田仙のように、蘭学をとおして習得していたオランダ語を媒介に英語を学んでいきました。英語「第一世代」である福沢諭吉・津田仙の二人は、幕府の遣米使節一行に通訳として加えられ、太平洋を渡ってアメリカに行っています。さらに、イギリスやアメリカに留学生を派遣して、英米の文化や先進的な技術とともにナマの英語を学ぼうという気運も生じてきました。
 明治4年(1871)、5人の少女が横浜を離れ、アメリカに留学しました。最年長の上田悌は16歳、最年少の津田梅子はわずか6歳11か月でした。因みに梅子は津田仙の次女です。今年は明治維新150年ですが、女子留学生全員は、幕臣や戊辰戦争で幕府側に属した藩の武士の子女でした。会津藩士の娘であった山川捨松(後に大山巌の妻となり、「鹿鳴館の花」として知られています)が代表的です。11年にわたる留学を終えて帰国した時、梅子は日本語が不自由だったそうですが、英語習得に悪戦苦闘した父親に対して、留学でナマの英語を身に付けた娘は、まさに英語「第二世代」と言えるでしょう。
 一方、明治政府は英米やヨーロッパ各国から教師を招き、官立の学校で教育に当たらせました。いわゆる「お雇い外国人」です。大学などの学校で、彼らは当然ながら英語などの外国語で授業を行っていました。生徒たちも自然に高い語学力が身に付き、札幌農学校(北海道大学の前身)でクラーク博士に教わっていた内村鑑三たちの英語力は、アメリカの大学生並みであったそうです。また、欧米から派遣された宣教師が設立したミッションスクールでは、外国人教師による英語教育が盛んでした。『赤毛のアン』を翻訳した村岡花子は、カナダ系の東洋英和女学校で英語を学びましたが、留学経験はなく、海外に行ったのは晩年に一回だけでした。意志と努力があれば、国内にいても高い英語力を身に付けられようになったのです。彼らは「第三世代」に当たります。
 やがて、留学していた日本人が帰国し、教壇に立つようになります。これによって「お雇い外国人」は不要になりました。東京帝国大学の英文科では、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)に代わって、ロンドン留学を終えた夏目漱石が教鞭を執ることになったのです。ハーンから漱石への交代は、英語教育が外国人教師から日本人教師の手に移ったことを象徴する出来事と言えましょう。こうして、訳解と文法を中心とする日本の英語教育が始まります。この「学校英語」の時代を「第四世代」と呼ぶこととします。
 しかし、太平洋戦争が始まると、敵国となった英米の言語である英語は「敵性語」とされます。学校での英語教育が削減されていき、ついには英語の授業はなくなってしまいました。一般社会でも英語の使用が禁止され、野球でもストライクは「よし」、ボールは「だめ」と言い換えさせられました(やがて野球自体も禁止されますが…)。この英語暗黒の時代が「第五世代」です。
 終戦、アメリカ軍の進駐によってと英語ブームが起こり、ラジオの英会話番組が大ヒットしたりしました。しかし、学校では依然として、訳読と文法を中心とする英語教育が続いていきました。戦後復興から高度成長期において、「学校英語」はコミュニケーションのツールとしてよりも、学歴社会の進展とともに上級学校への進学の手段(試験で良い点を取ることが目標)となっていたように思います。学歴社会の下で「受験英語」としての色彩を強めていった時代を「第六世代」としましょう。私はこの世代に属します。
 そして、現在は英語の「四技能」が叫ばれていますが、なかでも「話す」「書く」といったアウトプットする力が重視されています。本校でも11月には1年生を対象に、四技能の力を判定する外部試験を実施することになりました。今の生徒たちが「第七世代」であることは間違いありません。
 これからの英語の授業はどのようになっていくのか、興味は尽きません。