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校長日記 日々雑感
2016年3月の記事一覧
東日本大震災から5年です。
本日はあの東日本大震災から5年目の日です。
5年前のあの日は、我孫子高校の教頭として勤務しておりました。職員室にいて、ものすごい揺れに驚き、机の引き出しが飛び出るのと、机の上の物が散乱するのを押さえるので精一杯でした。不幸中の幸いだったのは、考査中だったのでほとんどの生徒は帰宅しており、残った10名ほどの生徒も先生方で分担して送り届けました。校舎内を点検すると、渡り廊下と校舎を繋ぐ部分がかなり痛んで、一部のコンクリート片が散乱していました。でもグラウンドは手賀沼を埋め立てた土地ですので、至る所で液状化が起こり、テニスコートは大きな亀裂が走って、陥没してしまったことを覚えています。
あの時に困ったのは連絡手段がすべてダメになってしまったことです。そして、鉄道もストップしてしまい、身動きの取れない状況になってしまったことです。
当たり前の結論ですが、常日頃から色々な場合を想定して、対策を考えておく必要を強く感じました。
私にとって最もショックだったことは、その後にテレビで映し出され続けた、東北から関東にかけての太平洋岸を襲った巨大な津波でした。特に、陸前高田と女川には大学時代の友人がおり、テレビの映像を見ながら、友人の無事を祈りました。
それから一ヶ月後くらいに辛くも何を逃れて親戚の家に身を寄せていることが分かり、8月に友人達とともに陸前高田を訪れました。そのときの衝撃は忘れられません。ほとんどすべての家が土台を残して跡形もなく。かろうじて残っていたのは、作りが比較的頑丈だったビル等でした。しかし、それも1・2階の壁は無くなっており、瓦礫と流された車が詰まっていました。そして、道端の目立つところには、救援活動を行った自衛隊の方々が見つけたアルバム等が、綺麗に泥をぬぐった状態で置かれていました。持ち主が戻ってきた時のためなのでしょう。でも、ふと足下を見ると位牌までが転がっており、果たしてそこに住んでいた方が生き延びる事ができたのだろうかと、暗い気持ちになりました。
そのときに友人から聞いた話しなのですが、凄い音が聞こえて海の方を見ると、津波が見える前に、電柱がバタバタと倒れるのが見えたそうです。そこで、友人は奥さんに「裏山に逃げるぞ!」と声をかけて一目さんに逃げたそうです。奥さんはお隣を気にして、お隣さんに声をかけてから走り始めたそうです。友人が裏山に駆け上る途中で、奥さんの手を引くと、奥さんの足は水につかっていたそうです。間一髪だったようです。
友人が一番残念がっていたのは、消防団の若い衆が「海を見てきます。」と言って、責任感で向かったまま亡くなってしまったことです。もっと準備が出来ていたら、若い人の命が失われることは無かったのにと悔しがっていました。
既に5年が経って記憶が薄れつつあります。忘れずに万一の事態に備えなければなりません。
5年前のあの日は、我孫子高校の教頭として勤務しておりました。職員室にいて、ものすごい揺れに驚き、机の引き出しが飛び出るのと、机の上の物が散乱するのを押さえるので精一杯でした。不幸中の幸いだったのは、考査中だったのでほとんどの生徒は帰宅しており、残った10名ほどの生徒も先生方で分担して送り届けました。校舎内を点検すると、渡り廊下と校舎を繋ぐ部分がかなり痛んで、一部のコンクリート片が散乱していました。でもグラウンドは手賀沼を埋め立てた土地ですので、至る所で液状化が起こり、テニスコートは大きな亀裂が走って、陥没してしまったことを覚えています。
あの時に困ったのは連絡手段がすべてダメになってしまったことです。そして、鉄道もストップしてしまい、身動きの取れない状況になってしまったことです。
当たり前の結論ですが、常日頃から色々な場合を想定して、対策を考えておく必要を強く感じました。
私にとって最もショックだったことは、その後にテレビで映し出され続けた、東北から関東にかけての太平洋岸を襲った巨大な津波でした。特に、陸前高田と女川には大学時代の友人がおり、テレビの映像を見ながら、友人の無事を祈りました。
それから一ヶ月後くらいに辛くも何を逃れて親戚の家に身を寄せていることが分かり、8月に友人達とともに陸前高田を訪れました。そのときの衝撃は忘れられません。ほとんどすべての家が土台を残して跡形もなく。かろうじて残っていたのは、作りが比較的頑丈だったビル等でした。しかし、それも1・2階の壁は無くなっており、瓦礫と流された車が詰まっていました。そして、道端の目立つところには、救援活動を行った自衛隊の方々が見つけたアルバム等が、綺麗に泥をぬぐった状態で置かれていました。持ち主が戻ってきた時のためなのでしょう。でも、ふと足下を見ると位牌までが転がっており、果たしてそこに住んでいた方が生き延びる事ができたのだろうかと、暗い気持ちになりました。
そのときに友人から聞いた話しなのですが、凄い音が聞こえて海の方を見ると、津波が見える前に、電柱がバタバタと倒れるのが見えたそうです。そこで、友人は奥さんに「裏山に逃げるぞ!」と声をかけて一目さんに逃げたそうです。奥さんはお隣を気にして、お隣さんに声をかけてから走り始めたそうです。友人が裏山に駆け上る途中で、奥さんの手を引くと、奥さんの足は水につかっていたそうです。間一髪だったようです。
友人が一番残念がっていたのは、消防団の若い衆が「海を見てきます。」と言って、責任感で向かったまま亡くなってしまったことです。もっと準備が出来ていたら、若い人の命が失われることは無かったのにと悔しがっていました。
既に5年が経って記憶が薄れつつあります。忘れずに万一の事態に備えなければなりません。
卒業式お礼
先週の土曜日、3月5日に実施させていただきました、本校第二十九回卒業証書授与式。本当に沢山の保護者の方に出席していただきまして、厳粛な中で感動深い式を執り行う事が出来ました。本当に、卒業生の皆さん、おめでとうございます。そして、ありがとうございます。そして、保護者をはじめとして、本校の教育活動を見守ってくださった方々に、この場を借りてお礼を申し上げます。
今回巣立っていった3年生とは昨年からの付き合いです。色々な事がありました。本当に大丈夫だろうかと心配になったことも、一度や二度の事ではありません。しかし、修学旅行を終えて、いよいよ進路決定へと向かう2年生の2月・3月頃から、驚くほど大人の雰囲気を漂わせて成長したし、落ち着いてくれたと思います。さすがに最上級生という風格が出てきました。期待を上回る成長を見せてくれるところに、高校生の素晴らしさがありますし、教育者としての醍醐味があります。
今後も、皆様の期待に応えて、今年の卒業生を上回るような成長を見せてくれる生徒を育てて行かなくてはいけないと、心に深く誓いました。
つきましては、拙い文ではありますが、式辞を掲載させていただきます。卒業していった生徒達のこれからの人生で、わずかでも役に立ってくれればと願っています。
『 式 辞
今回巣立っていった3年生とは昨年からの付き合いです。色々な事がありました。本当に大丈夫だろうかと心配になったことも、一度や二度の事ではありません。しかし、修学旅行を終えて、いよいよ進路決定へと向かう2年生の2月・3月頃から、驚くほど大人の雰囲気を漂わせて成長したし、落ち着いてくれたと思います。さすがに最上級生という風格が出てきました。期待を上回る成長を見せてくれるところに、高校生の素晴らしさがありますし、教育者としての醍醐味があります。
今後も、皆様の期待に応えて、今年の卒業生を上回るような成長を見せてくれる生徒を育てて行かなくてはいけないと、心に深く誓いました。
つきましては、拙い文ではありますが、式辞を掲載させていただきます。卒業していった生徒達のこれからの人生で、わずかでも役に立ってくれればと願っています。
『 式 辞
厳しい冬の寒さを経て、ここ数日の暖かさにより、校庭の木々も冬の装いから、春の訪れを感じさせる季節となりました。
本日ここに、卒業生の保護者の皆様方のご列席の下、流山市立北部中学校長 中川淳(じゅん)様、流山市立東深井中学校長 岩本守様、流山市立新川小学校長 田中京子様、本校保護者会会長 浅野ま友子様、本校保護者会副会長 荒木綾子様、をはじめ、卒業生にゆかりの深いご来賓の皆様の御臨席を賜り、千葉県立流山北高等学校 第二十九回卒業証書授与式を挙行できますことは、本校にとって、この上ない喜びであります。高い席からではございますが、皆様に、御礼申し上げます。
ただ今、本校普通科の課程を修了し、卒業証書を手にされた、209名の皆さん、心からお祝い申し上げます。
こうして皆さんが今日この日、卒業式を迎えることが出来たのは、もちろん皆さん自身のたゆまぬ日々の努力の賜です。そして忘れてはいけない事は、その陰には、いつも皆さんを慈しみ、育み、励ましてこられた保護者の皆様の愛情があります。そして、優しくあるいは厳しく叱咤激励し、教え導いてくださった先生方、互いに思いやり合い助け合い、絆を深めた友人達、そして思いやりを持って暖かく見守ってくださった、地域の方々に支えられたものです。これらの人たちへの感謝の気持ちを忘れてはなりません。本日がよい機会です。すこし照れくさいと思いますが、「ありがとうございました。」と素敵な言葉で、感謝の気持ちを伝えてください。
さて、君たちは流山北高校の制服が変わって新しいスタートを切った学年であり、学級増により6学級となり、すべてにおいて新しいスタートを切った開拓者でもありました。そしてこの度、本校での3年間にわたる鍛錬の日々を経て、新しい世界を開拓する旅に出ることになりました。その社会に出るという、最も困難ではあるが素晴らしい旅に出る君たちに、一言お祝いの言葉を述べたいと思います。
卒業生の皆さん。皆さんは自分の能力についてどう思っていますか。人には様々な能力があります。論理的に考える力、色々と知っている知識力。どんどんと進めて行く実行力。人をまとめる統率力。そのなかでも、人生での様々な困難を克服した経験の蓄積である、経験知が最も重要であると私は思います。
例えば、かつて私が大学生の頃、高校を出て就職したかつての同級生に会った時に感じた、もの凄く大人びた雰囲気。それはきっと、社会という荒波の中で得た経験知が、彼を私よりずっと成長させたことを、私が暗黙のうちに感じ取ったためでしょう。
君らの中には、小学校、中学校で苦労したことを思い、新しいスタートを誓って、学び直しの学校である本校を選んだ人も多いと思います。以前にもお話ししたとおり、本校の学び直しは単なる学習の学び直しに終わるものではありません。本校の先生方の厳しくも優しい、きめ細やかな指導に応えてきた君らの中には、君ら自身でも気づかない能力が養われてきています。今、その力を発揮する時です。
まさに君らが、世界に誇る日本の物作りを支え、継承発展させ、世界の模範となる、おもてなしの心を、日本を訪れる世界の人々に実感させる主役となるのです。もちろん、そのためには幾多の苦難が待っていると思います。しかし、その苦難を乗り越えた先には素晴らしい未来が待っています。
先日、サッカーのアジア選手権でリオ・オリンピック出場を決めたU-23日本代表の手倉森監督が日本経済新聞に寄せた手記にこう書かれています。
「一度考えたことがある。この挑戦に負けたら自分のサッカー人生は終わるな、と。五輪連続出場を途切れさせれば大きな汚点が付く。でもそれは大きな仕事をさせてもらっているということの裏返しだ。誰もが出来る仕事じゃない。怖がるな―。自分に言い聞かせて、戦ってきた。
かつてなく難しい方式の予選を戦ったのは運命だ。J1仙台監督当時、東日本大震災を経験した。生きたくても生きられなかった人がたくさんいた。自分だけが苦しいなんて思いは一切消えた。生かされ、日本を率いる任務を与えられた。そのこと自体が幸せだ。」と。
サッカーに詳しい人は分かると思いますが、このU23日本代表は「勝てない世代」と呼ばれ続けてきました。しかし、「どうせダメなんだ。」ではなく、あるいは「自分が自分が」という気持ちを捨て、仲間達と力を合わせ、あきらめずに頑張った結果、ドーハの悲劇のリベンジとも言われる勝利と優勝を勝ち取ることが出来ました。
私が何度も引用している言葉ですが、経営の神様と言われている松下幸之助さんは、「失敗したところでやめてしまうから失敗になる。成功するところまで続ければ、それは成功になる。」と言われています。
21世紀の日本を支えるのは、まさに君たちです。流山北高校で鍛えた心と体と絆を忘れずに、前を向いて力強く自分の人生を開拓していってください。
さて、終わりになりましたが、保護者の皆様には、この三年間、本校の教育活動に絶大なご理解とご協力を賜りましたことに、心から感謝申し上げます。
本校も、地域連携アクティブスクールとして、これまでの発展を基礎に、ますます大きく飛躍しようとしています。これからも流山北高校は、卒業生が母校として誇れる学校となるよう、一層邁進して行く事を約束いたしますとともに、卒業生の皆さん一人ひとりの限りない発展と、豊かで幸せな将来を願って、式辞といたします。
平成二十八年三月五日
千葉県立流山北高等学校長 三橋重信 』
新着日記
いろいろな部活動が活躍中!!
新着
行事予定
2月
10日(月)45分×6限
12日(水)火曜日課
17日(月)木45
18日(火)~20日(木)
入学者選抜関係(生徒休業)
21日(金)月曜日課
27日(木)
追検査(生徒休業)
千葉県立流山北高等学校
〒270-0116
千葉県流山市中野久木7-1
電話:04 (7154) 2100
FAX:04 (7155) 6971
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