令和4年12月13日(火)
先日、戦中戦後の混乱期に6年にわたり本校校長を務められた兵藤益男校長先生のお孫さんが、NPO法人安房文化遺産フォーラムの皆様の御案内で来校されました。兵藤校長先生は、茨城県の御出身で、東京帝国大学医学部に進まれましたが健康を害し中途退学され、その回復を待って文学部に再入学、卒業後は千葉県で教職の道につかれました。
本校(安房中学)には、戦争が厳しさを増す昭和19年に第7代校長として着任され、軍国主義から平和教育、また旧制中学校から新制高校へいう大転換期に学校の舵取りを務められた方です。
田居守夫の筆名にて歌壇でも活躍された文人校長で、その小首をかしげて思案する風貌に、多くの生徒・職員から親しみを込めて「がんくび」校長とあだ名された名物校長でありました。

その文人校長が見い出した人材に、寺崎武男画伯がおられます。戦時中館山に暮らしていた画伯は、明治16年のお生まれで、このときすでに老大家(…後の生徒からの愛称は「おじいちゃん」)でしたが、校長の熱意に応え、昭和24年、本校の美術講師となられました。
寺崎画伯のもとからは、のちに美術界で活躍される人材が多く誕生しましたが、その一人である井上忠蔵先生は、私が中学校時代の先生です(たしか、今も残る千倉中学のライオン像は井上先生の作品だと思います)。
さて、前置きが長くなりましたが、今回この記事を書かせていただいたのは、本校が創立百周年を記念して作成した「創立百年史」の記事に誤りが発見されたからなのです。
「創立百年史」P301に「自由の女神と寺崎先生」と題した文章(以下)があります。
昭和25年2月に撮影した高校第2回生の卒業写真に、右手を高く掲げたヴィーナス像-自由の女神の像が写っている。この像を造ったのは寺崎武男画伯である。学校創立以来文武両道をモットーに質実剛健の気風を養ってきた男子校の玄関前に女性の裸像を建てたのは、まさに画期的な出来事であった。しかし外部からの非難の声が先生の耳に入り、憤って自らの手で破壊してしまった。(後略)

最後の一文(憤って自らの手で破壊してしまった)は、長く事実として信じられてきました。
それが今回、兵頭校長先生が御遺族に託された資料やそれらに基づく安房文化遺産フォーラムの調査などにより、誤解であったことが判明しました。
「72年目の真実」
女神像には、確かに批判を含めさまざまな意見があったようで、兵頭校長が本校を去ったのちには、その取り壊しも云われていたとのことです。
しかし、「自由の女神像は、七浦中学校(小学校と共同の校庭)の校庭に残されていた、二宮金次郎の銅像跡の台の上に鎮座して、子供達の成長を見守り続けることになったのである」(『たまべえ日記 画家の街道より』井上忠蔵著より)。
寺崎画伯は、当時七浦中学校の課外授業の指導にもあたられており、親密な仲であった栗原校長先生からの厚意を受けた女神像は、千倉町の石油店の方々の尽力のもと、安房高から七浦中(七浦小)に動座したのです。
兵頭校長先生のものに残されていた資料から、七浦小学校で女神像を背景にした卒業写真なども見つかり、72年目の真実が明らかになりました。
七浦中学校(小学校)での女神像
(付記)「歴史資料と言説」(『日本史の森をゆく』東京大学史料編纂所編)
…過去の出来事(事件)について、その「事実」に関しての共通認識といえるものが、その社会内で存続しうる条件は、事件後70年目あたりを境目に大きく変化するのではないか、そういうことを最近考えるようになった。(中略)
生存者がもはや一人もいなくなった段階において、様々な歴史の「事実」を検証するためには、ほぼ偶然に左右されて遺された史料を、微に入り細に入り、縦横に検討して分析することで、当事者の当面した「事実」に、推論を交えながら近づいていくしかない。(後略)
本校は今日が定期考査の最終日でしたが、これから冬休みまでは通常の授業が続きます(2期制なので)。
好奇心旺盛に学びの道を進んでほしいと思います。(by 校長)