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一校1キラッ☆

平成29年度一校1キラ更新しました!!!

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天気

 

栄光の歴史1

明治36年
 校友会柔道支部として明治36年2月に創設。やがて銃器室を改造して、52畳の道場とした。39年迄は部員となって稽古をするのは生徒の随意であったが、この年から全校生徒を練習に参加させるようにし、42年には準正課とした。

大正4年
   甲組乙組の対抗意識と柔剣道部の千葉遠征

  安房北条駅(現館山駅)まで汽車が開通したのは、大正8年5月24日であった。その前は汽船による連絡はあったが、回数の少ない船便は大層不便で、県内でも郡外各地に行くより、むしろ東京へ行く方が便がよかった位である。
 従って、スポーツでも他校と技を競う機会は、鏡ケ浦で競技する水泳を除いては、大正初期まではほとんどなかった。スポーツは人間の闘争本能を適度に発散させるものだが、本校ではその場が他校との競技にはなかったので、いきおい、校内試合が盛んになり、甲組対乙組とか、寄宿舎生対通学生とかいう形で行われていた。
 大正初期、本校では一年級は甲、乙、丙の三組があったが、二年級からは甲、乙二組に編成され、しかも一度甲組に入れば五年級まで甲組、乙組に入れば五年級まで乙組というふうに編成された (この編成は長所も多いが、後年弊害が生じたので廃止された)ので、甲組乙組はそれぞれ縦の結束が堅く、また両者の対抗意識は大層強かったらしい。そのためか、甲組乙組の間では、しばしば勇しい衝突が起ったという。たとえば、ボートレースの応援の際など、下級生の甲乙間の小ぜり合いが、甲乙全体の争いに発展することがあった(中9回卒・高橋理紀氏の談話)。血の気の多い若者たちにとっては、一つのレクリエーションであったのかも知れない。
 こうして、各種運動競技の試合は校内試合に限られていたから、大正四年から柔剣道が千葉へ遠征するようになり、対抗意識が外部にも向けられるようになった訳で、その意味でも、この千葉遠征は画期的な事であったのである。

大正8年

 大正8年6月15日、千葉町の武徳殿で催された招待試合に、初めて北条から汽車に乗って柔剣道部員4名の選手が参加した。
  この時は優勝旗は手にできなかった。

大正11年

 大正11年に至り、柔道剣道両部優勝となった。以後多少の消長はあっても柔剣両部の輝かしい優勝の記録が始まる。
 当日の試合について簡単に紹介しておこう。まず開催の場所は、千葉武徳殿、日時は大正11年11月26日午前8時半開会であった。
 試合の方法は、現在行われている対校戦形式ではなく、各校は10名の選手を大将、副将より先鋒まで順位を決めておき、各校の大将は大将同士、副将は副将同士というふうに、同格同士でクジ引きをして対戦相手を決め、三本勝負の試合をして勝ったら一点、引き分け、負けは零点となり、勝った点の多い学校が優勝という方式であった。
初の柔剣道両部優勝記念
                                   

 柔剣両部の優勝の原動力となったのはまず第一には、明治以来の尚武の思想の伝統であろう。柔剣道が、正式に授業の科目として取り上げられたのは、明治45年の千葉県立中学校の学則改正以後であるが、本校では開校当初から放課後には、全校生徒に対し、柔道または剣道を課し、明治41年度からは準必須科目となして、各学年週一回は授業を受けさせたのであった。明治40年以降になると、寒稽古はまさに壮烈を極めた。寒中30日間、午前4時半から6時半まで寒気を冒して稽古に励んだ。中には、千倉、南三原といった遠方から2食分の弁当を持ち、午前2時に起床して駈けつけた者もあった。明治43年度などは全校で三百数十人の出席者があったというから、当時在籍していた者の大半が出席したことになる。このように、柔道剣道に親しむ人の底辺が極めて大きかったことが、頂点にいる選手を支えていたのであろう。
 第二には、大正9年就任以来、直接指導に当られた高幣留吉先生の熱意であった。先生は武専出身の技の名手であり、3年計画でこの年に賭けておられたという。またその先生を補佐する先輩団の母校愛にもとづく応援援助も無視できない。この当時、特に苅込豊氏(中11回卒)、川又務氏(中13回卒)の両先輩は、御自身大学柔道界で名のとどろいた強豪であったが、更に現役の大学の名選手を引き連れて、しばしば母校を訪れ、指導に当らせている。たとえば、当時学生剣道界で最強といわれた早稲田大学の相浦五段、及び3名の選手も、苅込氏の斡旋で、大会の一月ほど前一週間にわたって滞在し、本校選手を徹底的に指導してくれたのであった。剣道部の完全優勝も、直接はこのコーチのお蔭だといっても過言ではない。
 また、東京小石川坂下町の講道館の敷地にあった″安房育英舎″は大学に学ぶ本校卒業生のための寮であったが、舎長の青木彬氏(中8回卒)は、柔道、剣道、水泳部など運動部選手が上京した時の宿として進んで舎を開放してくれ、講道館の一流の技に接する機会を与えてくれた。


大正13年
   柔剣道両部再度健勝

 大震災に倒壊した教室に代わる応急の教室を確保するためにも、しばらくは職員生徒は授業を大幅に犠牲にして復興に取り組んだ。
 その上放課後も作業に従事して構内の整備に努めなければならなかった。正規の授業すら思うにまかせぬ状態であったから、部活動もしばらくは中止の止むなきに至ったのである。道場はいまだ再建されず、運動場は校舎の建築資材の置き場となっていて活動するにもその場所もなかったのである。
 大震災の被害は、県南の房州地方に比べれば、千葉を中心とする県北の地方は軽少であったが、東京横浜などの火災による被害が余りにも甚大であり、その社会的配慮からか、例年秋に行われた各種大会は大正12年度は中止となった。
 大正11年、柔剣道両部優勝によって大いに意気上った本校は、連続優勝を目指して猛練習をしていた矢先、未曽有の天災に止むをえず涙をのみ、次年大正13年に期待をかけたのである。倒壊した校舎の片付けの一段落したこの年5月、剣道部の練武場(生徒控所兼用)一棟が完成し、仮教室兼用のため部員は不自由を忍びながらも練習することができるようになった。柔道部は、とりあえず露天にしつらえた床板の上に畳を敷き練習に励むうち、7月ようやく道場も再建された。かくして、ほば一新した陣容で、しかも半年以上の空白のハンディを持ちながら、よく再度両部優勝を遂げることができたのである。大災害の苦難をも乗り越えた気迫の優勝ということができる。
 さて、試合の日時、場所、出場選手の氏名などについて、簡単に紹介しておこう。
 日時は、大正13年11月23日、一点の雲もない好天気、「不可勝不可敗」の縫い取りのある紫紺(剣道)深紅(柔道)の二本の優勝旗を先頭に堂々千葉武徳殿に乗り込んだ。カーキー色の制服は、他校生の目に、かつては、野暮くさい田舎者の身なりと映ったようだが、大正11年に柔剣道両部が優勝してからは、それは武道における県南の雄の象徴的服装として恐れられたのである。
 出場選手は、剣道柔道ともに10名、補員2名であった。試合方式は大正11年の時と同じである。
 柔道は、副将戦が終った段階で、本校が七点、宿敵佐原中が六点であり、大将戦に総てがかけられた。この大将戦について、この時の選手であった佐藤周治氏(後に本校の体育の教官となり、陸上競技でも鳴らした)は回想記の中で次のように書いておられる。
「大将戦は鈴木謙さん、相手は県下中学生ただ一人の講道館二段の佐原の大将、その年の六月、武徳祭に小川さん(実力大将で、安房中学生で講道館初段の第一号)が投げ跳ばされたほどの実力者。謙さんはその後北大に進み、全国高専大会に北大に鈴木ありとうたわれた人で、中学時代ほ水泳、陸上の方が本職であった。この大将戦も実に長い五分間で謙さんの奮闘により引分けとなり、安房中学連続二連勝と、各新聞の房総版を賑わしたものでした。」などと書かれているように、かなり苦しい優勝であったが、それだけその喜びも、ひとしおであったのである。
      

 大正13年の優勝記念  
大正14年の優勝記念
昭和初期の柔道部

昭和2年の優勝記念
昭和3年の優勝記念
昭和5年の優勝記念
昭和15年戦前最後の様子
昭和29年   柔道部全国優勝
 5月の全国高校柔道県予選に優勝した本校柔道部は7月いよいよ全国大会に臨んだが、柔道部史から、その前後の様子をうかがってみる。
 5月23日全国高校柔道県予選(於稲毛)優勝。予選リーグ野田高を5-0、匝瑳高を4-0。決勝トーナメント大多喜高を4-1これは事実上決勝戦であった。ついで佐原一高を4-0、決勝戦佐倉一高を5-0と降して全国大会と関東大会の出場権獲得。優勝決定の途端、高尾選手のお父さんが祝優勝の幟を会場に掲げた。


 6月18日から24日迄全国大会に備えて合宿、特に味岡浄七段(中28回卒) の釣込腰、釣込落の説明が行われた。
 7月7日全国大会申込み。
 7月12日から15日迄東洋大学と合同練習。
 7月16日組合せ発表。予選リーグは岐阜県代表長良高、岩手県代表盛岡一高(東北大会優勝校)。
 7月29日午前9時学校集合、八幡神社参拝、第一陣粕谷先生引率館山発11時日光着6時48分。
 7月30日鈴木猛先輩来光、午前の練習終了後二荒山神社に参籠、6時48分、第二陣角田先生引率列着。
 7月31日予選リーグ。第一戦盛岡一高(東北大会優勝高)を3-0、岐阜長良高を四4-0と降す。高尾選手の決め技は大外刈と大外落しであった。
 8月1日決勝トーナメント。
  第一戦鹿児島商業を3-1、二回戦福井の敦賀高を4-1、準決勝秋田高校を4-1、決勝戦は慶応高と1-1、当時は内容勝ちのない時代で代表戦となった。  高尾選手の技は釣込腰、背負投、大内刈、送襟絞である。

  決勝戦の模様は代表戦を勝ちとった高尾紀雄氏自身の記述によると次のようであった。
  「粕谷先生が、お前だと合図されたので、私は「よ-し」と立上り準備運動をはじめましたが、慶応の選手は仲々決定しませんでした。それは前年関東大会で(安房)一高に敗れているし、大学と共に前年度(安房)一高に合宿に釆ていたので私のことを良く知っていたのです。私は上田君と対戦した渡辺明治君であると決めて、背が私よりはるかに高いので背負投げ一本でゆく決心をしていたのですが意外かな先鋒の小倉君が出てきたのです。小倉君は寝技の得意の人であっただけ憶えて一瞬とまどいました。(試合開始後)50秒位たった時、(相手の)左足が「スッースッー」と前に出てきたので左大外刈にゆくと見事にきまり…」(高尾紀雄-全国優勝の思い出)。

 遂に念願の全国大会優勝の偉業を成し遂げた時、富沢会長は喜びのあまり試合場の中央に躍り出た。
 8月2日に県教育長より学校宛に、大橋前校長より柔道部宛にそれぞれ祝電があり、翌日午後4時5分館山帰着。花火が上り盛大な歓迎を受けた。小高代議士、田村PTA会長、川名教育委員等の祝辞を受けてからトラック一台乗用車三台に分乗し市内を行進した。優勝の報告は9月1日始業式の日に控所で行われ喜びを分ちあった。

全国大会優勝記念
                                      

昭和37年
   2度目の全国優勝ならず

 第11回全国高校柔道大会は8月4、5日にわたり新潟県立体育館に於いて熱戦が展開された。参加校49校、一日目に優秀16校に絞るのであるが、本校は長崎西海学園、鳥取の米子東をそれぞれ4対1、5対0で破り、決勝トーナメントに進出した。決勝トーナメント一回戦旭川竜谷高校を4対0と破り、準々決勝大阪工大付高を井上・渕辺・角田選手の奮戦で3対1と降し準決勝へと進出した。優勝候補の呼び声高かった報徳学園高と対戦2対2であったが、内容で辛勝した。これを見た天理の監督は 「ホッとした」と言っていた。天理高は報徳と二度戦って二度とも敗れていたのである。決勝は天理高校とであった。第三回日光大会優勝以来のチャンスである。
 吉田選手を中心に選手一同必勝の意気に燃えた。実力は伯仲。観衆が固唾を呑む中に熱戦が展開された。安房高は吉田・井上両ポイントゲッターが相手の引分け作戦により無点に終り、天理の気勢は上がり、安房は気落ちした。高校生の心理は微妙である。遂に2対1で敗れ、秘めたる優勝の思いは実らなかった。試合後粕谷先生は 「勝負は技術・体力・気力によって決する。技術・体力を生かすのは気力である。この心理作用によって敗れた」 と述べられた。
 9月2日全国大会10回連続出場、県大会11回連続優勝を祝して柔道部祝賀会が紋屋旅館で行われた。


全国準優勝記念
                                      

昭和38年   2年連続全国準優勝
 第12回全国高等学校柔道大会は8月 3、4、5の3日間にわたり四国松山市で行われた。千葉県代表として連続12回出場の本校は昨年度準優勝、関東大会圧倒的優勝の余勢をかって大会に臨んだ。予選リーグで相手校を一方的に圧倒し、決勝トーナメントに進出し、一回戦鹿児島商を2対1、二回戦九州の強豪福岡電波高を3対1と降して準決勝に進出。準決勝で関東の雄前橋商高を4対1と、断然たる強みを発揮して昨年度に続き決勝戦へと進出した。対戦相手は昨年度決勝戦で敗れた天理高である。選手一同昨年の雪辱に燃えていやがうえにも気勢が上がった。しかし、宿敵天理の壁は厚く先鋒、次鋒が敗れて1対3にて惜しくも2年連続準優勝に留った。
  個人戦重量級には2年生篠巻政利選手が出場し、団体戦の疲れもみせずよく健闘し決勝戦に進出したが近谷選手(函館有斗高)に縦四方固めで惜しくも敗れ、団体戦につづき準優勝となった。

全国準優勝記念
昭和41年   関東大会5年連続優勝
 第14回関東高等学校柔道大会は6月12日平塚市見附台体育館で開催された。本校は予選を難なく勝ち抜き、準々決勝、準決勝をともに5-0で勝ち抜き、決勝戦で明大中野高を3-0で破り、大会9度目、5年連続の優勝を果たし、関東に無敵の柔道部であった。

昭和31年関東大会優勝記念
昭和33年
昭和35年
昭和39年
昭和41年

平成2年
   20回目の全国大会出場達成
 「文武両道」を目指して厳しい練習を続けている運動部の中でもその中核として伝統と実績を誇る柔道部と剣道部が、この年そろってインターハイに出場した。久々の快挙に、学校内外から賞讃と激励の声が相次いだ。また、相撲部もインターハイ出場権を獲得した。
 柔道部のインターハイ出場は、実に13年ぶりのことである。粕谷・田留・角田先生の時代に19回出場の偉業を成し遂げているが、通算20回目の栄誉は容易に勝ち取れなかった。上木顧問になってからも、何度も挑戦しながら退けられ、早くも9年が経っていた。期待されていた新人戦では八千代松陰に敗れて三位。以後「臥新嘗胆」 の言葉を道場に掲げての練習が続いた.体力トレーニングに加えて、メンタルトレーニングやメンタルリハーサルも取り入れた。その成果もあって、関東大会県予選では八千代松陰に3対1で勝ち、2年ぶりに優勝。波に乗ったインターハイ予選では、準決勝で東海大浦安を1対0で破り、決勝では再び松陰と対戦したが2対1で突き放し、念願のインターハイ出場権を手にしたのである。
 インターハイは8月1日から4日まで、宮城県角田市総合体育館で開催され、OBの方々や家族の声援を受けて選手たちは頑張った。しかし壁は厚く、団体戦は予選リーグ1勝1敗で、決勝トーナメントに進むことができなかった。個人戦では、山口幸司が86kg以下級でベスト16、大坪幸一は3回戦敗退であった (大坪はその後、国体でベスト16の好成績を残す)。
平成8年   柔道部、関東大会40回目の出場果たす
 5月4・5日の両日、千葉市天台の県武道館で行われた第44回関東大会県予選会で、本校柔道部は団体戦で3位に入賞し、通算40回目の関東大会出場を決めた。  
 昭和28年に第1回目の大会が開催されて以来、今年で44回を数える本大会であるが、40回もの出場は他県には例がない。またその40回のうち優勝10回、準優勝2回、3位8回という記録はまさに快挙という他にはない。
 この偉業に対して、関東高校体育連盟柔道専門部より関東大会の開会式において、また千葉県柔道連盟より県総合大会の開会式において、それぞれ柔道郡主将の一場貴代治君の手に表彰状と記念品が授与され、会場より惜しみない拍手が鳴り止まなかった。
 また8月には本校柔友会主催の祝賀会が、多くの来賓各位の出席を得て挙行され、今までの柔道部の活動を讃えるとともに、さらなる発展を祈念して盛会のうちに終了した。
昭和から平成にかけて

昭和61年
嶌田・亀田両選手が
インターハイに出場
平成10年早川選手が
インターハイに出場
平成8年の寒稽古
相川先生も陣頭指揮

元世界チャンピオン
高木長之助氏の講習
平成13年の寒稽古にて

平成13年の柔道場(70歳)


最後に
 本校柔道部は、戦前の旧制中学時代に全国中等学校柔道大会に優勝するなど、数多くの成績を残してきた。
 その伝統を受け継ぎ、戦後昭和26年に柔道部が再建され、全国大会優勝をはじめとする記録は、粕谷栄宏、田留常吉、角田迪夫の三顧問の指導のもと、続々と更新されてきた。



 

栄光の歴史2

柔道部記録一覧

年月日
内容
昭和28年
第2回大会
全国高等学校柔道大会出場
   29年
第3回大会
       〃(団体優勝、技術優秀選手・高尾紀雄) 
   30年
第4回大会
       〃     
   31年
第5回大会
       〃
   32年
第6回大会
       〃(技術優秀選手・川名昭寿)
   33年
第7回大会
       〃
   34年
第8回大会
       〃
   35年
第9回大会
       〃
   36年
第10回大会
       〃
   37年
第11回大会
       〃(団体準優勝、10回連続出場)
   38年
第12回大会
       〃(団体準優勝、個人重量級準優勝・篠巻政利)
   39年
第13回大会
       〃(個人重量級準優勝・篠巻政利)
   40年
第14回大会
       〃
   41年
第15回大会
       〃(個人中量級第3位・宇山輝幸)
   44年
第18回大会
       〃
   45年
第19回大会
       〃(団体第3位)
   47年
第21回大会
       〃
   49年
第23回大会
       〃
   52年
第26回大会
       〃
平成 2年
第39回大会
       〃(20回出場)
関東大会の記録
出場40回 (関東地区最多出場) 優勝・10回  準優勝・3回  3位・8回
代表的卒業生
醍醐敏郎
昭和26、29年全日本選手権大会・優勝
篠巻政利
昭和44,46年世界選手権大会無差別級・優勝
 
昭和45年全日本選手権大会・優勝
高木長之助
昭和48年世界選手権大会重量級・優勝
 
昭和45年全日本体重別選手権大会重量級・優勝

昭和57年以降の成績

昭和57年
千葉県総体関東予選2位、千葉県選手権全国予選3位
58年
千葉県総体関東予選2位、千葉県選手権全国予選3位
59年
千葉県総体関東予選ベスト8、千葉県選手権全国予選ベスト8
全日本女子体重別選手権48kg河野裕子ベスト8(国際強化選手に選ばれる)
千葉県新人大会3位
60年
千葉県総体関東予選3位、千葉県選手権全国予選2位、個人71kg 的場優勝
インターハイ71kg 的場勉ベスト8
千葉県新人大会3位
61年
千葉県総体関東予選3位
千葉県選手権兼全国予選
  個人の部 86kg国本和昭優勝(インターハイ出場)、95kg亀田幸治優勝(インターハイ出場)
千葉県新人大会個人の部55kg遠藤天清優勝
62年
千葉県総体関東予選2位、個人の部山口勝己2位
千葉県選手権全国予選3位
千葉県体重別選手権55kg遠藤天清優勝、国体出場
千葉県新人大会2位、個人71kg吉野智洋優勝
第10回全国高等学校柔道選手権大会に出場2回戦敗退
63年
関東大会県予選優勝、関東大会3位
千葉県選手権大会兼全国予選3位
千葉県新人大会準優勝
平成元年
関東大会県予選3位
千葉県総合体育大会兼全国予選3位、86kg山口幸司優勝
千葉県新人大会3位、個人95kg大坪幸一優勝
2年
関東大会県予選優勝、個人の部大坪幸一2位
千葉県総合体育大会兼全国予選優勝(13年ぶりインターハイ出場)
 個人の部  86kg山口幸司優勝、インターハイベスト16、
         95kg大坪幸一優勝、インターハイ予選3回戦敗退
3年
千葉県体重別選手権大会 少年男子86kg級 優勝栗原英之
4年
関東大会県予選会 団体ベスト8
県新人大会 団体ベスト8、男子個人60kg級優勝 鈴木大祐、女子個人61kg級3位 飯島愛子
5年
関東大会県予選会 団体ベスト8、関東大会出場
県総体 個人60kg級2位 鈴木大祐
県新人大会 団体ベスト8
6年
関東大会県予選会 団体ベスト8、関東大会出場
県総体 個人60kg級2位 小林良将
千葉県体重別選手権大会 少年男子95kg級 3位 志村武晃
県新人大会 団体ベスト8、個人無差別級3位 秋山修一
7年
関東大会県予選会 団体3位、関東大会出場(団体優秀校)
県総体団体3位
千葉県体重別選手権大会 少年男子無差別級3位 秋山修一 、71kg級3位刈込英介
8年
関東大会県予選会 団体3位、関東大会出場(40回出場表彰)
千葉県体重別選手権大会 少年男子86kg級3位 一場貴代治
9年
県総体 団体ベスト8 、個人 60kg西森貴志3位
県新人大会  個人 81kg早川幸介2位 、52kg荒井千尋3位 73kg早川祐樹3位
10年

県総体 個人 81kg早川幸介優勝、90kg石井繁ベスト8、48kg野村静3位、52kg荒井千尋3位
インターハイ出場  個人 81kg早川幸介
県新人大会 個人81kg 福原健太ベスト8、無差別鈴木孝昌ベスト8、63kg金木佳江ベスト8

11年
関東大会県予選 団体 ベスト8
県総体 団体 ベスト8 、個人 81kg福原健太 ベスト8、 関東大会出場
千葉県体重別選手権大会 個人90kg石井繁 2位
県新人大会 個人 無差別鈴木孝昌優勝、81kg代見和良ベスト8、63kg一場礼子3位、飯島深雪3位、70kg金木佳江3位
12年
県総体 団体 男子ベスト8、女子3位、個人 100kg超鈴木孝昌3位、100kg高木大輔3位、81kg代見和良3位、73kg黒川明彦ベスト8、63kg飯島深雪2位、63kg一場礼子3位 
千葉県体重別選手権大会 個人 100kg高木大輔ベスト8、70kg金木佳江ベスト8